著者 谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう) 発表年 1943年 発表形態 雑誌掲載 ジャンル 長編小説 テーマ 優雅な生活 『細雪』は、1943年に雑誌『中央公論』(1月号・3月号)、1947~1948年に雑誌『婦人公論』(1947年3月号~1948年10月号)で発表された谷崎潤一郎の長編小説です。 雪子(せつこ) 三女。 構造: 木造瓦葺2階建• 単行版(中央公論社)は1983年6月• 妙子 - 四女 -「こいさん」 (船場言葉「小娘さん」= 末娘) その他• 谷崎作品と女性関係は切り離せないものとなっており、作品には谷崎自身の女性関係が大きく反映されている。
4いや、もっと正直のことを云えば、全盛と見えた大正の末頃には、生活の上にも営業の上にも放縦であった父の 遣 ( や )り方が 漸 ( ようや )く 祟 ( たた )って来て、既に 破綻 ( はたん )が続出しかけていたのであった。 昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳) 和 暦 西暦 年 表 年齢 谷崎潤一郎の足跡 昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在 昭和11年 1936 2.26事件 50 11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居 昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通 岡田嘉子ソ連に亡命 「モダン・タイムス」封切 52 7月3日~5日 阪神大水害 昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始 6月 掲載禁止となる 11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居 昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北 東条内閣総辞職 レイテ沖海戦 神風特攻隊出撃 58 7月 「細雪」上巻を自費出版 12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず 昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在 5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居 6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版 11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居 昭和22年 1947 織田作之助死去 中華人民共和国成立 61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版 3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完) 昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版 <広沢の池> 谷崎潤一郎は「細雪」の中で、何回か「嵐山」を訪ねています。
2年6月28日、竣工。
人の切れ間が無く写真を撮るのに苦労しました(後ろ姿で写るようにしています)。
幸子は一往伺ってだけおきますと云う風な 挨拶 ( あいさつ )をして、承知したともしないとも云わずに帰したが、奥畑が話した程度のことなら、まるきり想像していないでもなかったので、そんなに意外には感じなかった。
17の名家の出の沢崎である。 新京阪とは現在の阪急電鉄京都線の初期の名称です。
本店が東側のお店です。
下 [ ] 6月、辰雄の長姉が幸子に縁談をもたらす。
それでも妙子は彼と結婚するつもりでいる。 それはまあええとしましても、そのために人形の製作の方がだんだん不熱心になって来て、最近殆ど仕事らしい仕事してはれしません。
「この方が、 御寮人様 ( ごりょうんさん )にお目に懸りたい 仰 ( お )っしゃっていらっしゃいます」 見ると、奥畑の名刺であった。
会社の外に夜学校の仏蘭西語の教師してはって、その月給が百円ぐらいあって、両方で三百五十円はあるのやて」 「財産は」 「財産云うては別にないねん。
出演者• しかしだんだん尋ねて行くと、それには一つ一つ相当な理由があって、妙子としてはなかなかよく考えた結果であることが分った。
井谷の話はそう云うところへ持ち込まれた訳なので、大体に於いて此方の注文と余りかけ離れてはいなかった。
綺麗な着物と、それを纏った女優さんたちの色気や所作の優雅さに触れる余裕がなくなりました。
雪子を縁遠くしたもう一つの原因に、井谷の話の中に出た「新聞の事件」と云うものがあった。
1959年(昭和34年)からは右手の麻痺により口頭での執筆に切り替えたとされますが、1965年(昭和40年)に79歳で生涯を終えるまで名作家としての顔を貫き通した。 谷崎潤一郎 -• 陣場氏:• フローベール「ボヴァリー夫人」などと比較するとそれははっきりする。
昭和9年に現在地(大阪府立夕陽丘高等学校)に移っていますが、「細雪」で書かれているのは昭和13年の話なので時期的には転居先の大阪府立夕陽丘高等学校の所だとおもわれます。
だから「昔のことを考えるな」と云う井谷の言葉は、ほんとうに為めを思った親切な忠告なので、蒔岡の家が全盛であったのはせいぜい大正の末期までのことで、今ではその 頃 ( ころ )のことを知っている一部の大阪人の記憶に残っているに過ぎない。
幸子 ( さちこ )は去年 黄疸 ( おうだん )を 患 ( わずら )ってから、ときどき 白眼 ( しろめ )の色を気にして鏡を 覗 ( のぞ )き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。 貞之助や幸子達も、妙子が舞う時は雪子や悦子などを連れて見物に行ったものなので、自然その会の人々とも 昵懇 ( じっこん )を重ねるようになったが、そんな関係から、妙子が幹事の人に頼まれたと云って、六月の会場に 蘆屋 ( あしや )のお宅を貸して 戴 ( いただ )けないでしょうかと云う話を持って来たのは、今年の四月の末であった。
13石の並びがすばらしいです。
主なキャスト [ ] 1966年 1970年 1976年 1984年 1985年 - 1990年 1993年 - 1994年 1995年 - 1997年 1998年 鶴子 幸子 岡田茉莉子 雪子 多岐川裕美 妙子 2000年 2001年 - 2003年 2004年 2005年 - 2008年 (全国ツアー) 2008年 (帝国劇場) - 2009年 鶴子 幸子 雪子 (2003年中日公演) 妙子 南野陽子 (2003年中日公演) 南野陽子 2010年 2011年 2012年 2014年 - 2015年 2017年 2019年(明治座) 鶴子 幸子 賀来千香子 雪子 水野真紀 妙子 関連文献 [ ]• それから 此方 ( こっち )、義兄は雪子の縁談には 懲 ( こ )り 懲 ( ご )りした形で、他人が持って来てくれる話には喜んで耳を傾けるけれども、自分が積極的に取り持つことや、先に立って良い悪いの意見を述べることは、出来れば避けたいと云う風に見えた。
谷崎潤一郎作品「刺青」で背中に絡新婦の入れ墨を入れたのは大映きってのトップセクシー女優・若尾文子 谷崎潤一郎作品「刺青」は、ビジュアルイメージを極めて刺激する作品ですが、センセーショナルな内容で、さすがに戦後になるまで、映画化することはできませんでした。
53年,島耕二監督と再婚 1965年離婚 ,その後は一転して《青春怪談》 1955 から《陽のあたる坂道》 1958 ,《男の紋章》 1963 に至る〈ふとったお母さん〉のイメージが強い。 幸子、雪子、妙子と悦子は辰雄の姉を訪ねてに行き、そこで雪子が見合いをすることになった。
下寺町の北側にある下寺町交差点にはは織田作之助が書いた「夫婦善哉」の「サロン千代」がありました。
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『細雪』の家へようこそ。
拾い読みしただけの私でも分ることがあって、映画版はあの長篇小説を上手く改変しています。
下 - 『』3月号-12月号• 大正時代に非常に栄えましたが、大正末期からは没落してしまいます。 妙子は衣裳を汚さないように膝の上にナフキンをひろげて、分厚い 唇 ( くちびる )の肉を一層分厚くさせつつ口をOの字に開けて、飯のかたまりを少しずつ 口腔 ( こうこう )へ送り込みながら、お春に茶飲み 茶碗 ( ぢゃわん )を持たせて、一と口食べてはお茶を 啜 ( すす )っているのであった。
1947年(昭和22年)• 2016年8月2日閲覧。
雪子には何度もお見合いの話が来るがいつもうまくいかない。