後に綾波型の駆逐隊として編成された2代目にも白雲(未実装)が途中編入している。 10月25日午前2時30分、ガ島派遣部隊より飛行場占領は誤報・激戦中との報告が第八艦隊に入り、つづいて飛行場周辺のアメリカ軍陣地爆撃と米軽巡1隻のルンガ泊地入泊の報告を受ける。 1933年(昭和8年)3月4日、救援のため第六駆逐隊僚艦雷と共に釜石へと急行し、6日には盛に入った。
18空気余熱器はII型の漣に搭載してテストされ、その結果が良好だったため、昭和2年度計画の最後の4隻は急遽缶を3基に変更した。 4月3日にに帰投し、4月6日から11日まで入渠した響と入れ替わる形で、4月11日から16日まで浦賀船渠で入渠整備を行い出渠後は横須賀で修理が続行された。
Ref. 岩手日報 1933年(昭和8年)3月7日• 978-4-05-606020-1。
」 吹雪(2代)型駆逐艦の歴史 「吹雪」(2代) 「吹雪」=降雪に激しい風が伴うものを指す 1926年 6月19日 舞鶴工廠にて「第三十五号駆逐艦」として起工 1927年11月15日 進水 1928年 8月 1日 艦名を「吹雪」を改称 8月10日 竣工 1937年 日中戦争に参加 1941年12月〜 太平洋戦争に参加。
7cm連装砲A型改三 戦時改修 +高射装置」が入手できる 任務の際に94式高射装置が必要。 7cm連装砲 2基4門 25mm連装機銃 3基 25mm単装機銃 2基 61cm3連装 3基 九四式投射機 1基 その他 特記を除き建造時の要目 テンプレートを表示 電(いなづま)は、の。
1940年(昭和15年)8月下旬から9月中旬、吹雪は、、等で開かれた演習に参加した。
11月14日深夜、少将率いる、の2戦艦と駆逐艦4隻が近藤艦隊を迎撃し、 第三次ソロモン海戦 十四日第二夜戦 となる。
C08051772000『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。 そして其の後に現はれたものが"初春はつはる"以降9隻の1,368頓型の最新型であるがこれ等も上記のものと同様に特型と呼ばれてゐる。
19続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが、海兵隊陣地の5インチ海岸砲からの反撃により「暁」の三番砲塔の薬室に1発が命中して一時火災が発生、戦死者4名・重傷2名を出す被害を受けた。 画像6『内令第五二五號 横須賀鎮守府豫備驅逐艦 驅逐艦 潮 右第四豫備驅逐艦ト定ム 昭和二十年六月十日 海軍大臣』• 画像7、昭和20年1月17日秘海軍公報第4905号『内令第二十五號 驅逐隊編成中左ノ通改定セラル 昭和二十年一月十日 海軍大臣 第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜、」ヲ削ル 第四驅逐隊ノ項ヲ削ル 第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル 第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル 第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル 第三十驅逐隊及第三十一駆逐隊ノ各項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル』• 1936年(昭和11年)12月1日:横須賀警備戦隊。
12『内令第七百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年六月十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「秋雲、」ヲ削ル|第十九驅逐隊ノ項中「、天霧」ヲ削ル』• 1934年(昭和9年)11月15日:第二艦隊第二水雷戦隊。
このような被害があったものの、マダン揚陸はおおむね完了し、攻略部隊は20日午前中になってラバウルへ戻った。
223-225インド洋上の英商船狩り 四月• 橘正雄 少佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日• 中佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日• 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 太平洋戦争 開戦を控え、1941年(昭和16年)11月に南方部隊本隊に加わった。 Ref. 3月10日、第三水雷戦隊の編制が代わり、東雲を喪失して2隻編制(白雲、叢雲)となっていた第12駆逐隊が解隊。
12所見 イ 近迫攻撃ニ缺クルモノアリ ロ 射撃ニ関シ更ニ研究ノ余地大ナリ斯カル戰斗ヲ以テセバ晝間同等程度ノ兵力ニテハ敵ニ打撃ヲ與フルコト不可能ナリ ハ 水雷戦隊ノ遠距離少数射線発射又研究ノ余地大ナリ ニ 積極的戦法ニ缺クルモノ大ナリ』• 193a-195第一次艦艇輸送の失敗• Ref. : 由佳・: 提督。
9月29日、護衛部隊(暁、雷、掃海艇1号、掃海艇3号)として沖輸送第三船団(輸送船4隻)を護衛してを出撃し、トラックまで護衛を実施する。
うち吹雪型は画像5• 主砲:12. 普段の交流は第九駆逐隊の朝雲や霞、末期に行動を共にしたやメインとなっているようで、それ以外には第五艦隊の那智のことを「かっこいい」と、多摩のことを「かわいい」と評価している。
その後キスカ島へ移動し、8月15日から20日にかけて「霞」と同じくグロウラーの攻撃で大破した「」を片岡湾まで曳航した。 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. これを敵艦隊なのか日進輸送隊なのか六戦隊司令部が迷い、味方識別信号を送りつつ敵味方識別を実施中に、艦影(米艦隊)は砲撃を開始。
5大事に使います。 石戸勇三 中佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日• 高橋(少将)は、第二海上護衛師団司令として1番艦沈没時に戦死した。
C12070176200。
243頁• 概要 [ ] により、を始めとする主力艦等の保有制限を受けた日本海軍が、条約の制限を受けない補助艦艇の整備を強化する方針を打ち出したことにより建造された新型駆逐艦が本型である。
4-5『「バタビヤ」沖海戦 輸送船隊南下中2月27日来「バタビヤ」港外附近ニ出没シアリシ敵艦艇ハ3月1日0000我ガ輸送船隊「バンタム」湾及「メラク」沿岸地区入泊ヲ了シタル直後即チ3月1日0015敵巡洋艦「ヒューストン」 米大巡 「パース」 豪乙巡 ノ2隻「バンタム」湾泊地ニ来襲セリ。 「暁」は6月12日に爆撃を受けて損傷した「響」を6月13日から6月27日にかけて大湊まで護衛した。
6橘正雄 中佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日• 93、昭和3年11月23日 内令323 、「狭霧」追加。 後に修理復旧 1937年 日中戦争に参加。
池田七郎 中佐:1930年3月1日 - 1930年4月25日 艦長• 一方で、対潜中、僚艦「」は守備隊「沼」と衝突を起こし、大でを受けることとなった。
2での数値は「1,780」にも見える。
Ref. この間の4月1日、第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊(少将)に編入される。 「暁」と「響」は5月22日にを出港して(、)をまで直衛。 8月修理完了 1944年 6月 3日 ビアク島輸送作戦中、米水上部隊と交戦(ビアク島沖海戦) 10月26日 オルモック湾輸送作戦の帰路、米軍機の攻撃を受け沈没 12月15日 除籍(12月10日説あり) 「綾波」(2代) 「綾波」=重なり合ってうち寄せる波を指す 1928年 1月20日 藤永田造船所にて「第四十五号駆逐艦」として起工 8月 1日 艦名を「綾波」と改称 1929年10月 5日 進水 1930年 4月30日 竣工 1937年 日中戦争に参加。
6高橋一松 少佐:1932年5月16日 - 1932年8月20日 艦長• (昭和4年)11月18日、進水。 Blair,Jr, Clay 1975. 後日、「漣」は第7駆逐隊へ、「狭霧」は第20駆逐隊に編入される。
1942年11月 - 12月 11月24日の第3回への輸送作戦を皮切りに、電は、への輸送作戦に参加した。
太平洋戦争前期 詳細は「」および「」を参照 2月上旬、(師団長陸軍中将)がを攻略することになり 、馬來部隊 は陸軍輸送船団の護衛をおこなった。
00mとなっているが、図面53、白雲線図によると、前部垂線から艦首まで2. 教科書でご存知でしょうが、この条約が発効する1922年から1936年の期間は「海軍休日」と呼ばれ、世界の海軍は「軍縮」を強いられたのですが、日本ではその受け入れを巡って、「条約派」と「艦隊派」という対立を生みました。
同日附で軽巡は軍艦籍より、雷、電、秋雲、天霧は帝国駆逐艦籍より除籍された。
21『エンダウ沖で同等勢力で決戦サネツト號撃沈ヴアンパイヤ撃退』• 3『内令第九百九十七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十六年九月一日 海軍大臣 及川古志郎 第七驅逐隊ノ項中「朧、」及「、漣」ヲ削ル』• Ref. 八月二八日聯合艦隊電令作第二四三號及北方部隊電令作第二九二號ニ依リ第六驅逐隊機動部隊ニ編入セラレ本職ノ指揮下ヲ離ル、之ニ伴ヒ北方部隊信令第一五三號ニ依リ薄雲ヲ第六驅逐隊ヨリ除カレ第二十一驅逐隊ニ編入セラル』• 藤田友造 少佐:1937年11月15日 - 1938年2月4日• ここで新屋は「私はあなた(アトランタ)と他の巡洋艦から被弾があったと考えています」と話したが、モアドックは「暁に砲を向けたが、すぐに(暁のいた)右舷から左舷に砲を向けて別の艦を砲撃しました。
1-2〔 内令第千八百二十三號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦一等ノ部中「睦月型」ヲ「卯月型」ニ改メ同項中「睦月、」ヲ削リ、同吹雪型ノ項中「、朝霧」ヲ削ル 〕• 24日夜にで空襲を受け「早潮」が被弾、炎上する。
Ref. (特型)の24番艦(III型の4番艦)、朧型(吹雪型の後期型)。 扶桑艦長としてに参加、扶桑沈没時に戦死• 「君川丸」はアッツ島への搭載機の輸送を行い、2月15日に2隻は柏原湾に帰着した。 ら級との化を図ったとも言われるが、残る級各艦がどのようなになるか、たちのの1つになっている模様。
6『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌 2 』。
そこで、いままでの駆逐艦よりも強力で高性能な駆逐艦の建造を行うことを決定、特型駆逐艦として建造を開始した。
1932年(昭和7年)4月1日に解隊した樺型駆逐艦4隻からなる先代に続く四代目の第六駆逐隊である。